度重なる不運に翻弄され、奄美大島に送りになった西郷どん。島民からは罪人だと敬遠され、彼自身も刺青といった島の文化を受け入れられなかったこともあり、最初は孤立していたそうです。西郷どんは上陸後、流人の空家を借りて過ごし、2ヵ月ほど後に龍郷村の名家・龍家の離れに移り住みます。そこで彼の面倒を見たのが、龍一族の代表・龍佐民という人物で、西郷どんに子供たちの手習いを依頼するなど、交流も深かったそうです。
島の生活を続けるうちに、西郷どんは薩摩鹿児島藩の「サトウキビ(砂糖・黒糖の原料)」搾取によって、島民が疲弊していることを知ります。
そんな中、「島民が役人に捕らえられた」という事件が起こったのです。
当時、奄美大島で採れる「サトウキビ」は、薩摩鹿児島藩の重要な収入源となっていました。藩はサトウキビ農民に無理なノルマを課しており、たとえ不作であっても、収穫が少なければ厳しい処罰が待っていたそうです。サトウキビ優先で、自分たちの食料も作れずに困窮する「黒糖地獄」を見た西郷どんは、ノルマを果たせず拘束された島民を助けるため、直談判に乗り出します。彼は「農産物は天候や天災に左右されるもの。それでも島民を罰するなら、藩主に報告する」と言い放ちます。これに驚いた役人は、捕まった島民を開放したのです。
このことをきっかけに島民の信頼を得て、次第に打ち解けていった西郷どんに、佐民から縁談が持ち込まれます。
相手は一族の娘・愛加那(とぅま)。彼女は佐民の姪で、性格は温和かつお淑やか、機織り上手の働き者だったそうです。髪には銀のギハ(かんざし)を差しており、今も龍郷町生涯学習センター「りゅうがく館」(展示は複製)で見ることができます。
佐民の媒酌で結婚した二人は、仲睦まじく暮らしていたといいます。やがて長男・菊次郎にも恵まれますが、西郷どんの静かで幸せな生活は長く続きませんでした。
安政7年(1860年)3月、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、斉彬の側近として活躍、江戸や京都に人脈を持つ西郷どんに召喚命令が下されたのです。
しかし、島妻である愛加那は、島妻制度により薩摩へ連れて帰ることはできません。
西郷どんはつい先日、家族で暮らすために建てた新居に妻と息子、やがて生まれ来る子供(長女・菊草)を残し、文久2年1月(1862年)、奄美大島を離れました。
西郷どんの人生に潤いを与えた奄美大島での3年間。「THE SCENE」では彼の暮らした場所、ゆかりの地をめぐるツアー(宿泊、二食付き)を行なっています。
奄美龍郷町歴史的史料や文化財が展示されている「奄美・龍郷 島ミュージアム」のある生涯学習センター「りゅうがく館」をはじめ、西郷どんの島生活を支えた「愛加那の墓」、愛加那やこどもたちと暮らしていたという「西郷南洲流謫跡」などを訪ねます。